11月末の土曜日。午後の光が差し込むリビングで、二人の間には一人ぶんの空白があった。
三人掛けのソファの両端。彼は右端で脚を組み、膝に乗せたノートパソコンの画面に鋭い視線を向けている。
アメリカ本社との時差の都合上、彼のスケジュール帳は早朝から深夜まで細切れだ。私は反対側の端で、スマートフォンを指でなぞりながら、ホリデーを過ごすためのレストランを探していた。
「ここ、24日空いてるよ。どう?」
「ん、ちょっと待って。あと五分でメール返しちゃうから」
彼の視線は画面から外れない。
私たちは、決して仲が悪いわけではない。半年に一度は旅行に行くし、週末はよく二人で外食もする。
けれど、どこにいてもパソコンを開けば、仕事ができてしまう時代。私たちは、心から落ち着ける時間を作るために、いつも「外出」という手段を必要としていた。
二人で暮らすこの家はいつの間にか、羽を休める場所ではなく、次の予定までの待合室のようになっていた。
ふと、彼の着ているTシャツが目が留まる。
同棲を始めた頃から3年近く愛用している、出張先でもらったノベルティのTシャツだ。何度も洗ううちに色褪せ、生地はくたっとしている。
仕事では手入れの行き届いたジャケットを羽織り、月に一度靴を磨き、場面に合わせて腕時計を替える彼。人に見えるものには手間もお金も惜しまないのに、見えないものには無頓着だった。
私は私で、人が何に心動かされ、豊かさを感じるのかを分析するマーケターの仕事をしているくせに、自分の暮らしを慈しむ感情は置き去りだった。私の部屋着は、首元に毛玉の浮いた五年前から着ているカットソーだ。
この家には、「一日が終わる合図」がなかった。服を着替えても、心はどこか張りつめたまま。だから夜になっても仕事の続きが気になり、ソファの真ん中に目に見えない壁ができてしまうのだ。
12月に入り、例年通り彼が口を開いた。
「今年のクリスマス、どこ取る? 美味しい肉でも食べに行く?」
私は、レストランのブックマークリストを一通り眺めたあと、開いていた画面を閉じ、彼に言った。
「ねえ、今年は家で過ごしてみない?」
「家で? ……いいけど、良い店なかったの?」
「ううん。そういうわけじゃないんだけど、たまにはさ。その前に、来週一緒に行きたいお店があるんだけど、いいかな?」
翌週、私は彼を百貨店へと連れ出した。
お目当ては、半年ほど前から気になっていたシルクパジャマだ。
上質なパジャマが並ぶ区画で、彼は値札を見て首をかしげた。
「これ、誰にも見せないのに……もったいなくない?」
値段が高いからではない。自分たち以外、誰の目にも触れない服に、それだけの価値を見出せないのだ。
「今年はさ、誰かに見られるための服じゃなくて、自分たちのためだけの服を買おうよ」
私はそう言って、彼の手に一着のシルクパジャマを手渡した。
彼はそれを手にとり、ゆっくりと指先で撫でた。そのまま数秒間黙り込んだあと、吸い込まれるような光沢を放つブラックを指差す。
「じゃあ、僕はこれにする」
私は自分用として、色違いのアンバーブラウンを選んだ。
袖を通すのは、24日の夜。今年のクリスマスを家で過ごすための、特別なドレスコードにしようと決めた。
お揃いのパジャマが収められた紙袋を持つ彼は、心なしか誇らしげに見えた。
12月24日、クリスマスイブ。
フライパンで手際よく肉を焼き、贈り物でもらったまま忘れていたワインの栓を抜く。
彼のこだわりで買ったものの、忙しさにかまけて棚の隅で眠っていたレコードプレイヤーに針を落とすと、少しノイズの混じったあたたかなホリデーミュージックが部屋を満たした。
お風呂上がり、皺一つないシルクパジャマに袖を通した彼が、脱衣所の鏡の前でぽつんと立ち止まり、自分の腕を不思議そうに撫で下ろしている。
リビングに入ってくるなり、彼はいつもの定位置でパソコンを開いた。年末は片付けなければいけない仕事が溜まっているのだろう。
しかしその直後、大きく息を吐いたあとで彼が呟いた。
「……これ着てると、仕事する気にならないな」
それを聞いて、私はどこかほっとした。それこそが、私たちが無意識に求め続けていたものではないだろうか。
彼はパソコンの画面を閉じ、その夜、再度開くことはなかった。ローテーブルの上には、飲みかけのワインが入ったふたつのグラスだけ。
私が彼の隣に腰を下ろすと、二人のあいだにいつもあった一人ぶんの隙間は、もうどこにもなかった。肌を滑るシルクの心地よさに包まれながら、私たちは久しぶりに、時間を気にせずに笑い合った。
一月の、なんてことのない平日の夜。
毎晩のようにそのパジャマを着て眠るようになった彼が、ベッドに入りながらボソッと言った。
「これ、洗い替えに、もう一着あってもよくない?」
「……見えないものにはお金をかけない主義の人が?」
「そんなこと、一回も言ってないだろ」
私が意地悪く微笑むと、彼はバツの悪そうな表情で苦笑いを浮かべた。
あの日以来、私たちの1日に、心地よい終わりとあたたかな始まりが訪れるようになっていた。
