師走の夜。
オフィスの窓から見下ろす東京の街は、いつもより少しだけ華やいで見えた。
ビル群を彩るイルミネーションと、足元を絶え間なく流れていく車の赤いテールランプ。街全体が浮き立つのを遠くに感じながら、私はキーボードを叩く手を一度止め、小さく息を吐き出す。
プロジェクトマネージャーを任されるようになり早3年。慌ただしい日々を送る私にとって、この季節はロマンチックな行事というよりも、一年のうちで最も過酷で、同時に大きな達成感を伴う「最終追い込み期」だった。
年末に向けて仕事の忙しさはピークを迎える。連日、分刻みのスケジュールとシビアな判断を求められ、頭も身体も常に緊張の糸が張り詰めていた。
「何としても、このプロジェクトをやり遂げて、みんなで笑顔で休みに入ろう」
その一心で、プレッシャーに耐えながら走り続けてきた。
21時。その日の仕事を終え、重い肩を回しながらビルを出ると、冷たい夜風が頬をかすめる。通りには、お洒落をして楽しそうに歩く恋人たちや、賑やかに笑い合うグループが溢れていた。
その光景を眺めながら、ふと、二十代の頃の自分を思い出す。
かつての私は、クリスマスに特別な予定がないと、なんだか世間から取り残されたような寂しさを感じていた。無理に予定を詰め込んだり、華やかな場所に身を置くことで、自分の寂しさを埋めようとしていた気がする。
けれど、三十代も半ばにさしかかった今の私は、そんな強迫観念のような焦りを、いつの間にか手放していた。
誰かと過ごす賑やかな夜も素敵だけれど、今の私にとって最も愛おしく、贅沢に思えるのは、「やり遂げた」という心地よい疲労感とともに迎える、誰にも邪魔されない自分だけの静かな時間だった。
「よし、帰ろう」
タクシーを拾い、後部座席に滑り込む。首都高速のオレンジ色の光が、ガラス窓を滑るように後方へと流れていく。東京の真ん中で戦い、それなりのキャリアを築いてきた自負はある。けれど、緊張感に満ちた「オン」の自分から、プライベートな「オフ」の自分へと心を切り替えるのは、言うほど簡単ではない。
静まり返った自宅のドアを開け、鞄を置き、そのままバスルームへと向かう。
広めの浴槽にゆっくりと身体を沈め、「ふぅ」と大きく息を吐く。立ち上る湯気とともに、身体から力が抜けていくようだ。
お風呂上がりの火照った素肌には、愛用しているシルクパジャマを滑らせる。
袖を通した瞬間、全身の力が抜けて、心地よい吐息が溢れてくる。1日の終わりに、「あぁ、私に戻ってきた」と感じられる瞬間だ。
このパジャマを愛用し始めたのは、二年前の冬だった。
初めて任された大きなプロジェクトをやり遂げた日。
頑張った自分を労うため、その日はまっすぐ帰宅せず、百貨店に立ち寄った。
自分へのご褒美を求めて、コスメ、ジュエリー、洋服を一通り見たあとで、足を止めたのは、ライフスタイルブランドのウィンドウディスプレイだった。
トルソーに着せられたシルクのパジャマ。見るからに滑らかなその生地で、一日の疲れが溜まった身体を包みこむ瞬間は、どれほど贅沢で、心地よい時間なのだろう。そんなことを考えながらその場に立ち尽くしていると、百貨店の店員がそっと声をかけてくれた。
「もしよければ、一度着てみませんか?」
そうして案内された試着室で、私は生まれてはじめての心地よさと出会うことになる。
全身を撫でる、とろりとした生地の感覚。美しく上質なシルクを纏う高揚感とやすらぎが、一瞬にして全身を包み込んだ。
これだ。私の求めていたものは。
その日、頑張った自分自身を労うギフトとして、私は、一着のシルクパジャマを選んだ。
あれから二年。
このパジャマは、すっかり私のオフの相棒になった。
いつもなら、着替えたあとはそのまま眠りにつくところだけれど、今夜は少しだけ特別な夜を演出することにした。
スマートフォンの通知を切り、スピーカーから静かなジャズ調のホリデーミュージックを流す。フレグランスキャンドルに火を灯した。ゆらゆらと揺れる小さな炎が、温かな陰影を描き出す。
淹れたてのホットシナモンティーをマグカップに注ぎ、ベッドに腰掛けた。
こうして少しだけ五感を満たす仕掛けをするだけで、部屋の中には私だけの愛おしいホリデーの空気が満ちていく。
窓の外に広がる東京の夜景は、相変わらず眩しい。
20代の頃は、きらびやかなレストランに足を運び、ドレスアップして外に出かけることこそが「特別なホリデー」の定義だった。
けれど、30代になった今の私は知っている。
誰にも邪魔されることなく、ただ深く息をつく。そんな自分を慈しむ時間こそが、今の私が求める何よりのギフトなのだと。
「お疲れさま、私」
小さなキャンドルの炎を見つめながら、私は静かに呟いた。

